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ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

僕らは一生変われない。

 

何度騙されたら僕らは変われるんだろうか。

 

篠田麻里子、ミニスカ始球式でノーバンならず

石原さとみノーバン始球式で「やったー」

 

クリックする動きに使ったカロリーはせめて返して欲しい。

 

この記事を見ておっとなるのはぼくだけじゃないはずだ。絶対に。

土屋太鳳が無事ノーバンみたいなの記事をあげた時、PVめちゃくちゃ伸びてたからな。誤魔化せないぞ。

 

 

人間が機能として備えるものに僕らの意識は逆らえない。これは何事においても人間活動の大前提になる。心臓は自分じゃ止められないし、胃酸はお願いしなくてもわんさか出てくる。鼻毛は気づいたらレッドラインを平然と超えてくるし、お通じを改善しようとすると各駅停車は快速へと姿を勝手に変える。視覚を通した認識もこれと一緒だ。

 

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく

ニコニコ大百科http://dic.nicovideo.jp/t/a/typoglycemia より引用

 

有名なコピペ。

中英語なんかを読んでる時もこれと同じように、文字の順番や綴りが違くてもある程度気にせず読めてしまう。意味がわからなくて、辞書を引いた時初めて、現代英語とのスペルの違いに気づくことがある。

1度認識したものにも機能よろしく逆らうことはできない。感覚に意識は絶対服従だ。

 

この認識は文字に対してだけではなく人に対しても起きるからタチが悪い。最初の認識を歪ませてしまう僕も僕だけど。

第一印象で人間関係は決まると言われるくらい、最初の認識は大切だ。

だからこいつは印象が悪いな、とあまり仲良くしなくて後で本性を知った時に、もっと早く仲良くしておけばと気づくことが多々ある。そしてこれらは往々にして別れが近づいてる時に多くなる。

「レッテル」というものを貼ることは、理解を容易にすることができるというメリットは確かにある。「あいつは結局ああだから」と決めつければグループ内での会話もスムーズにいくだろう。

物事の認識は主観に基づくから自分の中での位置付けが絶対になるのは仕方がない。これは視覚と認識という機能だから逆らうことはできない。

けれど、分からないものを強引に理解するためにレッテルを貼るのはいかがなものか。分からないなら分かろうとする意識を止める感覚はないはずなのに。

 

最初から自分にとっての位置付けを決めてかかるのは、文字の最初を見て後の中身を判断するのと同じだ。本質がなんであるかは見ていない。

もちろん再三述べたように人間の遺伝子に刻まれた機能には逆らえない。けれどゆっくり文字を見ればただのひらがなの羅列であることが分かるように、視覚によって認識されたものは、1度目と2度目で姿を変えることもある。

だから人間関係に置き換えたい。

新年度になって新しい出会いがある時期だからこそ、レッテルを貼って理解した気にならないでその人のことをよく知ろうとして欲しい。ノーバンに騙されてるようじゃ、何も理解できていない。

 

実存は本質に先立つから僕らは飛び交う認識の中で一生変われない。

ただ、認識する形はいくらでも変えられる。それを変えるのが知識であるのか風景であるのか、経験か追体験かは分からない。それがもしかしたらレッテルを貼った人の可能性だって十分にある。

自分にパラダイムシフトを起こすものは今視覚が捉えた人や今気になった本かもしれない。だから文字が読めるという例に学び、認識が間違っている場合もあると意識することは、別の視点を獲得できるという意味で大切だ。

 

見えてる気になるのはまだ早い。

 

 では、また。