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ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

我孫子事件に飛んでくる不謹慎の矢をかわす。

 

我孫子での女児殺害遺棄事件の犯人が逮捕された。

 

別に僕はニュースにコメントをする際の口角を、国民にいちいち見られるような立場ではないけれど、痛ましい事件だと目を伏せて思う。

 

生まれた時から千葉県はお隣の県だから「あびこ」って何も気にせず読めるけど、世間的には珍しい地名らしく千葉の女児事件で検索している人もいるらしい。まぁ地名が分からなくても連日ニュースを騒がせるこの事件は人々の関心を引くような点が多い。

犯人は15歳以下にしか興味がなく、裏ビデオを集めていた。周囲の人間のコメントだから尾ひれがついている可能性もあるが、犯人の性癖が槍玉に挙げられている。

上記の内容もなかなかのパンチだが、それよりも遺体を国に返す為の募金を始めようと言い出した男が犯人だったことが1番パンチが効いている。

 

日常に潜む狂気。他人が裏でほくそ笑む姿は認識することなく生きていきたい。

 

痛ましい事件が起きるたびに、いつ死ぬか分からないから毎日を大切に生きようって、学びに変える人は多い。実際にそういったコメントは氾濫している。分かるよ。明日殺されるかもしれないなら後悔をしないようにしなきゃって決意したくなるのは分かる。

でもそういった学びを否定したいわけじゃないけど、人が亡くなったら説明を挟まずに、とにかく日々を大切に、と換言するのはずるいと思う。何か意見は持っていたいけど、特に何もないから言っとけばいいやという姿勢が見え隠れしてるように思えてならない。

ありふれた日常を大切にしようって決意は、失敗や後悔を意味づけた過去が産む産物だと思う。だから後悔は残さないように生きようと心がける。

今回の事件は、保護者会の会長をやり、児童の帰宅を見守り、募金を言い出すような男が犯人だったのだ。死が歩み寄ってきていることすら気付けなかったのではないだろうか。なのにここからいつ死ぬか云々って、そりゃいつ死ぬか分かんないでしょうよって思う。DNA等の物的証拠があがるまで誰もが犯人と疑わなかった男が犯人だったのだ。

 

そんなところにまで、隣人が抱く狂気にまで、気を配り後悔を残さないようにしてたらもっと生に執着すればよかったと思うに違いない。ある意味でその後悔しないようにというのは、生に対する諦めだから。死ぬから仕方なくという意識が先行してしまっている。それではただ怖がってるだけじゃないだろうか。

 

もちろん僕らは後悔しないように、幸福を享受できるように活動すべきだ。けれどそれは近寄ってくる人たちに殺されても仕方ないと納得することなのだろうか。毎日すれ違う人に、帰り道が同じ方向の人に、殺されても仕方ないと諦めることなのだろうか。怖がることと、後悔しないようにする術は全く別のものだ。

 

こういった事件は赤の他人との関係をより軽薄なものにしてしまう。席を譲ったら怒鳴られたという事件と一緒だ。

体調が悪い時に席を譲ってくれた人、落し物を走って後ろから届けてくれた人、モッシュ中に靴紐を結ぶ時間を作ってくれる人たち。そんな人たちの中の狂気まで疑い始め、もしこの人たちに殺されてもいいようになんて思うのは、善意に対して失礼だ。

 

事件の顛末から何かを学ぶのは大いに結構だけど、すぐ隣にある死を実感するだけのものにするのはいかがなものか。

何か生活に還元できる具体的な思索がないと考えていないとみなすのはよくないんじゃないか。

悲惨な事件だったね。嫌な気持ちになったよ。だけでも十分に意見だ。それが不謹慎だなんてことは絶対にない。