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ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

なにが響けば「名言」か。

 

最近「言葉」ないし「名言」「格言」てのが話題沸騰なんじゃないかと思う。

 

単純によく目にするからただそう感じるだけなのかもしれないけど。

 

5分番組とか、特番とか、自己啓発コーナーに平積みされた新刊とかを見るとそう感じる。

 

もちろんそういった、短い1節のそれが、特定の誰かにとってその人の背中を押すようなものになることがあるわけで。座右の銘なんかも一般的になったし。

1人1節くらい言葉は掲げることがある意味当たり前になったのかもしれない。

 

そういったブームにそれは無駄だと中指を立てるわけではないけど、なんでもかんでもありがたがるのは変だなと思う。

 

例えば、スポーツ選手が挫折した時に母からもらった一言。とか、もう諦めた時に勇気をもらった一言。とか、今でも大切にしている亡き恩師の一言とか。

そういった言葉って受け手が後から振り返って、結果自分にとっての「名言」だったと考えている場合が多い。

それって単に言葉だけじゃなくて、応援してくれている話し手の気持ちや、関係性が加わった上で「名言」に昇華されているんじゃないだろうか。

単純に言葉そのものが持つ意味合いをとりだすのとは違って、背景があるから機能する言葉を、そこだけ切り取って示すのは、言葉の意味を正しく伝えられていないと思う。

 

話し手の気持ちや意図がこもっていること、またそれを受け手も分かっている。

これって言葉を理解するうえで、1つの重要な要素だと思う。

 

発した言葉が足りていなくても行間を読めって言う人がよくいるけど、それじゃ都合よく解釈されたった仕方ない。

 

 

 

「名言」番組は、挫折期の過程を写すけど、インパクトをもたせるのは、いい言葉でしょと言わんばかりの表情をした受け手と筆で書いた文章。

言葉に目をいかせがちだけど、もしそれをいいなと思えるなら挫折期に言われた一言だからなど、背景に感情移入できたからじゃないだろうか。

 

話し手が発言にたどり着くまでの思考は本人が語らなければ正解は絶対に見えない。

 

1個人を支えるくらいの「名言」だと大きく扱っていてもどこか上滑りしているような感じになるのは、いい言葉でしょと、テレビ越しに紙面越しにただの切り抜きを見せてきているからではないか。

辛いときの心に響きました。と感想を述べているけど、それが響くのは僕らではなくあなただからであって、一緒に共感することも、僕ら自身の「名言」にすることもできそうにない。

 

スポットライトの当て方が違うというか、見せ方を変えれば感動エピソードにできるのに。

わざわざ切り抜きの言葉を出されても、見終わった後、読み終わった後の生活に持ち帰ることは難しい。

 

だから、こういった切り取られた言葉をありがたがって傾聴し続けるのは変だなと思う。

背景があって機能する言葉を自身に置き換えてもそれはただの深読みで、都合よく解釈してるにすぎない。

にもかかわらず、切り抜きの名言は

自分がかけられたい言葉に意味を変換したような、形だけが同じの言葉が名言になるなら、言葉の切り売りがこれからさらにさかんになるかもしれない。

 

あなたを救う10の言葉。とか

辛い時を支える、やる気引き出す言葉。とか

 

気持ちや状況に合わせてできた言葉は本当に人に響くのだろうか。

人が言葉を発するのは受け手に伝えたい気持ちがあるからで、意思の疎通を図るためのツールとしてなりたってるわけじゃないですか。

 

先だしされた言葉を拾って読んで満足するようになったら、感情の調節を機会でやってるのとなんら変わらないんじゃないか。

 

マイナスの感情をすぐプラスに戻せるように言葉が準備されるようになったら、感傷にふけることもなくなってみんなが元気。みたいな。

侘しさ、寂しさ、哀愁とかを感じたり、痛みに対処するために「今日は酒をたくさん飲もう」とか、「あの子に会いに行こう」とかを考えたり、そういった思考の働きを制限するように言葉が機能するようになったらもうだれも他者を必要としなくなるんじゃないだろうか。

 

言葉を交わす必要はもうなくて、切り抜きの言葉がどんな心でも救います。

あなたを助ける言葉はもう事前に用意されてます。

その痛みは〇〇番の症例で、この言葉を聞けば、辛い時を救った「名言」だとみんなに言いたくなりますよ。

半紙を処方しておきます。

 

相手のことを考えて帳面に言葉を紡ぐ会話が過去の遺産にならぬよう、切り抜きだけを自分の言葉にはしたくないなと思います。

 

では。また。