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ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

さよならを云う

 

 

人との別れが苦手なんです。

 

出会いと別れの季節とはよくいうが、別れをクローズアップした言葉がこの時期になると鼓膜から溢れてくる。完全に供給過多。

SNSでのつぶやきや、フリー素材にスローガンのように掲げられていたり、プロフィールに書かれていたりと、別れとそれに対する苦手意識、付随する過去に対する漠然とした感傷は年度末に決着をつけなくてはいけないと決められているかのように皆揃ってこの時期に語り出す。

使い古された話ではあるが、手を振って振り返ったらすぐスマホを凝視する彼彼女らの心理は未だに理解できない。

 

 

新しい生活より、まだ決まっていない勤務地より、実家を出て彼氏が都内で一人暮らしを始めることより、今の人間関係の喪失を不安に思うのは、それほどまでに今思い描いてる友達が生活に浸透していたからだろうか。

比較対象の未来が今よりも面白くなさそうだから、享受したくないものだから、漠然とした今を手放したくないのではないだろうか。

 

嗅ぎたくもない麦酒の匂いを全身に浴び、遅延気味の終電に乗って帰路に着いた時、そんなことを思った。

 

 

今、僕も大学4年でそういう時期にきている。

今日初めて明確に、さよならは云いたくないと思った。

 

2度あることは3度あるというわけではないが、3月になると僕は人との関係が希薄になる、今年も情けないがそうなっていると思う。別れに対して何の準備もできていない状況。このままだとエモさに潰される。

 

エモいという言葉は大変便利で、この別れに関して沸き起こる様々な感情は大体エモいで片付けられる。

しかしながら、タイミングがズレると急に1人の時にエモくなりその全責任を負うことになる。これが大変なのだ。笑えないくらいにどうしようもなくなる。笑っちまうくらいに1人きりなのに。

この時期は友人関係の先がないことを実感してそうなることが多いから堂々めぐりに陥ってしまう。

 

さよならに対して何を準備すればこの状況は防げるのか。

 

 

小学校の時は何事もなく卒業した。感動して涙が出てきたんだけど、思春期に飛び込もうとしてる僕はそれが恥ずかしくて、目にゴミが入ったふりをしていた。バレバレの嘘を本気で心配してくれた彼らは今元気だろうか。

 

小学生の僕はちゃんと手を振ってまたねと交わし合っていた。

また会える、その感覚が寂しさを紛らわしていたと思う。

 

ある意味で、さよならやまたねは薬だと思う。

痛みや寂しさを取り除けるから。

お世辞であっても、それらは別れに対する心を準備させてくれる。

 

高校の時はまともにさよならなんて言わなかった。

進路決定が人より遥かに遅く、卒業を周囲の人たち程認識できていなかった。

 

当時付き合っていた占い好きの彼女は、さよならを云いそびれる僕を見て、そういう星の下に生まれたんだねと笑っていた。

寂しさや喪失感をうまく消化出来ていない僕にまた会えるからと顔を向けずに言っていた。

 

また会えるということ、未確定でありながらも脳の中にずっしりと予定が構えるということ、は寂しさを緩和させる良い薬になっていた。

だから僕らはさよならよりもまたね。を好んで使うし、別れ際にさよならなんてそんなこと、というエヴァの1シーンを名場面扱いする。

続きがあるということが与えてくれる安堵感は自宅の掛け布団と同じ。そう定義してもあながち間違いではないと思う。

 

 

でもそれ以来彼女に会うことはなかった。

不思議と失望感とかそういうのはなかった。

 

エモくなったのしばらくしてからだった。

 

形成された現状が記憶になってしまう以上、あの時を求めてしまうのは仕方ないことだと思う。

けれど、今ないものを数える方が得意な僕らは、追いすがる日を振り切る術を明確に持ててはいない。

 

 

きっと今年度の別れも後で思い出して嫌になって、思い出したことも忘れるんだと思う。

都合よく消化されていく笑っている友の顔に次第に後ろめたさを感じていく自分。

 

SNSのつながりを何よりも大切にしていそうな彼女と、居心地の悪そうな彼を尻目に大切なことは目に見えないというセリフを思い出した。

付け加えるなら、それを続けることでもないな、と。

 

またそういう風に心に折り合いをつけることが準備になるんじゃないだろうか。

 

楽しくもおぼろげな記憶に、街の中に潜む思い出に、自らの手で終止符を打つ行為。

 

だからさよならは言いたくない。