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ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

全面禁止で丸く収まった試しがない。

 

飲食店での全面禁煙は賛成ですか?反対ですか?

 

インテージリサーチの20〜69歳の男女1万人に対する調査によると、全体の賛成は54.4% 半分の人が禁煙にしていいと思ってるらしい。

その傾向は高齢者・女性に高くもちろん非喫煙者のようだ。

最も反対してるのは50代。

 

調査結果から対抗する意見の違いが浮き彫りになっていて、全面禁煙にする必要性が争われていることがわかる。

 

「小さい店舗で分煙はできないから全面禁煙に賛成」

 

これは大きい店舗は全面じゃなくてもいいということなのだろうか?

政府は全面禁煙を実施しなくていい店に対し一定の規則を考えているようなのだが、喫煙ルームを作れるとか、排気できるシステムがなど、予算と店の規模がある程度確保できなければ実現難しいラインを提示している。

 

小さい店舗は全面禁煙、大きい店舗は受動喫煙が防止できるから禁煙。どちらにせよ世論は喫煙行為を駆逐したい方向のようだ。

このままだと共存の道は歩めそうにない。幸福追求権を持っているのは非喫煙者だ。

 

小さい店舗が分煙できないならという意見は、痴漢が発生したけど、犯人分からないから乗客全員を逮捕しますと決断することと同じようなもんではないかと僕は思う。

細かく分けられないなら全部対象にしますってそりゃ思い切りが良すぎるし細部を見る努力を放棄しているのではないか。

 

もちろんタバコがもたらす身体への影響はいいものではないし、吸わない人がそれに蝕まれるのはもちろん良くない。

けれど喫煙者が行かなくなったために経営が悪化した店が出てきたら責任は誰が取るのか。

あちらを立てればこちらが立たずだ。

 

なにごとも全部禁止にしてしまうのは、かえって他の問題を招きやすい。

安全面を追求したため公園内の禁止事項を増やしたら遊具が減って子供が遊ぶ場がなくなったと騒がれている。

 

もっと分かりやすい例で言えば、校則だろう。頭髪に関する禁止事項が多ければ抜け道を探したりギリギリのラインを攻めてみたり各自色々な対策を練る。

携帯の持ち込みが禁止されてたけどこっそり持って行ったなんて人もいると思う。

生きてきた中で、ありとあらゆる規則を守ってきた人の方が少ないんじゃないか。

規則の持つ強さが違うから、石を投げていいのは今まで守ってきた人だけとはできないが、全面的な禁止は路上やそれ以外の場所での喫煙に関してまた議論を呼ぶと考えられる。

 

また新たな火種になるから僕は全面禁煙には反対だ。

分煙が進むぶんには何の問題もないしむしろ推進してほしい。

嫌煙家がいるのは仕方ないし、そういった人たちといがみ合いたいわけでもない。

幼児の前や妊婦の前、路上で喫煙するのは良くないし、非難されても仕方ない。どう考えても特定の喫煙者が悪いから。

しかしこういった議論で持ち上がる喫煙者像が全ての喫煙者に当てはまるわけではない。一緒くたにされたくない喫煙者も大勢いる。

だから分煙されればいい意味で周りに気を使わなくなる。

 

臭いはごめん。リセッシュを持ち歩きます。

 

喫煙者の利便性を考慮したり、経営への影響を考慮し分煙程度でと考えている人は調査によると24.7%いるようだ。

非喫煙者は12.8%

割合で見たら少ないけど、ここの割合が増えることで決着の道が見えるのではないか。

 

 

以前から喫煙に関する議題は多くの議論を呼んできたが今回の全面禁煙はなぜここまで多くの人の関心を呼ぶのだろうか。

 

そもそも今回の受動喫煙防止法はオリンピックの開催地の健康増進と整備が背景にある。それが気付けば開催地以外でもと話が広がっているのだ。

またスポーツ。いつだって健康!爽やか!心身の成長!を求めてないのに笑顔で語ってきやがる。

オリンピックは経済的にも文化的にも多くの利点があるから成功を目指すのはぜひと思うが、開催のために汚れた問題は全面変更にしようとする姿勢を見ると、汚いからと燃やされた『ワンピース』のスラムの話を思い出す。

 

汚いものには蓋をしてという考えかたで、喫煙問題だけが矢面に立たされているように見える。

 

あまり騒がれてはいないが、成人誌の表紙や宿泊施設として案にあがるラブホテルの内装も変更したほうがいいとされている。

 

成人誌はカバーをかける試みが行われていて、これは終了後また元に戻せるが、ホテルの内装は変更したらそうはいかないだろう。ヌーハラと同じように文化からできたものを世界から注目されるからと変更しようとするのはいかがなものか。

 

確かに宿泊施設の問題は対応しなければ大量に来る観光客を捌ききれず、経済的な損失にもつながるだろう。

けど非日常感を失ったラブホテルって微妙じゃないですか。

すする音が不快っていわれたからそばもうどんもラーメンもフォークで巻いて食べましょうってするのと一緒じゃないですか。内装の変更って。

 

まぁ、喫煙はこうした文化とは違うから、雑誌の対応が一時的ですむようになっているのに、もう2度と飲食店でタバコを吸えなくなるようにするのはおかしい!とは言えない。ただ、オリンピックがあるからって早急に事を急ぐのは祭りの後で思わぬ喪失を生みかねないと思うのです。

 

喫煙者だから全面禁煙に反対しているだけだと思われたらそれまでだけど、とりあえず全面で話を進めるのはどうなのって話です。

 

なにごとも抜け道があったほうがうまくいくってことで。

 

 

では、また。

4月25日のXデーになにもないことを祈って。

 

北朝鮮の機関紙が米空母を水没させる戦闘の準備ができたと報じた。

核実験場の近隣住民が退去を開始したと観測。

海上自衛隊と空母がフィリピン沖で共同訓練を開始。

 

北朝鮮情勢は日を追うごとにますます緊迫しているように感じる。

 

やっぱりミサイルが撃たれるんじゃないか。記事に目を通すたび不安になる。

狼少年のような声が大きいだけの嘘ならいいけど、実際なにがきっかけで緊張が破られるのか分からないし、いざって時に自分の身すら守れないのでは困る。

 

ミサイルが撃たれたらPAC3などで迎撃できるとは言われているけど、飽和攻撃であった場合、イージス艦ペトリオットミサイルでどうにかなるとは思えない。撃ち漏らしました!なんて報告を聞く前に死なない準備をしなくちゃいけない。

 

http://www.kokuminhogo.go.jp

-内閣官房 国民保護ポータルサイト

 

見たところでパニックになったら効果があるのかは分からないけど政府も注意喚起と対応策は提示している。

 

ただ、撃ち込まれたものによって若干の対応は変わる。ミサイルなら窓から離れて身を伏せたり、可能なら地下に逃げたりして身を守ればいい。化学兵器や核ならそれだけじゃ意味がない。

家にいるなら窓の目張りや換気扇を止めるなど外界の空気を取り込まないようにする処置が必要になる。閃光をみないようにする。コンクリートで囲まれたところにいるようにする。空気を吸い込まないようにする。また帰宅してからの衣服の処理など様々な対応が必要になるのに、Jアラートではなにが飛んでくるか分からない。落ちてからわかるまさかのサプライズだ。

 

Xデーとされる4月25日に北朝鮮がどのような動きをするかは当日になるまで分からない。

けれど心配が杞憂に終わってよかったと笑うためにも、食料や水を準備したり、Jアラートが鳴ってから着弾までの数分の間にすべきことを把握しておいたり、やれることをやっておくことは無意味なことではないと思う。

 

不安を煽るわけではないが、米から核実験を観測する機体が北朝鮮に向かっていることからも、意識しておくことは大切だ。

 

いざって時や復興を指揮するのは結局政府。だから今回も大丈夫と慢心するのではなく内閣官房の出す情報くらいは確認しておくべきだと思う。

 

では、また。

『フランケンシュタインの恋』に思う原作モチーフの必要性。

 

 『フランケンシュタインの恋』のCMがなぜか頭で繰り返し再生される。

さすがは野田洋次郎のセンスといったところでしょうか。

僕は人間じゃないと歌えるのは、古今東西どこの野田さんを探してもRADのギタボである彼くらいなもんだ。

 

【公式】日曜ドラマ「フランケンシュタインの恋」4月23日よる10時スタート!100年以上もの間、人間から身を潜め、孤独に生きてきた怪物が、人間に恋をする。歳の差100歳のラブストーリー。 - YouTube

 

 

 

 この作品はどうやらフランケンシュタインの名を冠するように、フランケンシュタイン氏が創り出した名のない怪物が人間に恋に落ちる作品らしい。まんまだ。なんとなく結末まで見える。絶対アイデンティティーに関する葛藤抱くシーンあるよ。人間じゃないのにとか、死なないのに、とか。

なかったら恥ずかしい。

 

より詳しいあらすじは以下からどうぞ。

http://www.ntv.co.jp/frankenstein_koi/introduction/index.html

−日テレ公式サイト

 

 

 フランケンシュタインは生みの親の名前で怪物じゃないってのはよく知られた話だけど、この作品はとりあえずそこらへんの設定はちゃんと踏襲してる。英文学や劇を研究してる身としてはこの作品の取り込み方がしっかりしてるとムズムズしないですむ。

間違ってたら間違ってたでいいし、そのことを主張するつもりもないんだけど、精神衛生上ね。

好きなマイナーバンドの後ろ向きな歌をサッカー部に大声で歌われたら嫌でしょう。ちゃんと分かってる?それってなるじゃん。でも説明とか絶対しないじゃん。そんな感じ。

 

 で、今回のこの記事では、この『フランケンシュタイン』を踏まえ、ベースにした作品が存在するにも関わらず、都合のいいように改訳して要素を取り込んでしまうという、近年の実写映画にも見られるような、テクストの再翻訳が抱える問題ついて考えていきたい。

ジョジョの実写化とか、銀魂の実写化とかみんな不安に思ってるわけで、それは作品解釈の違いからストーリーとかテクストの内容が変わっちゃうことに、少なからず原因があると思うんだよね。

 

 なんで話を都合よく変えるんだよ、とか再現度に限界があるとか不満持たずに入られたら大して原作が好きじゃない人たちが盛り上がっててもモヤモヤしないですむと思う。

 

 シェイクスピアの劇とテクストの関係性がよく表してるように、原文ないし原作が存在する作品は、必ず上演するにあたって作品が組み替えられる。シェイクスピアは本人が書いた作品は役者にセリフしか見せなかったために正確な台本が存在していない。研究所が読んでいるものも、新潮文庫とかから出てるものも全て、役者たちの記憶やメモを頼りに作られたつぎはぎだらけの作品なのだ。これは他の劇団に作品が盗まれ改訳されるのを恐れたためだとされている。古来より、原作者は作品の姿が変わることを恐れている。まさに歴史は繰り返すだ。

 

 しかしながら、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』や蜷川幸雄、ローレンスオリヴィエの『ハムレット』などHamletが原作の作品は現代にも多く存在している。

つぎはぎのテクストをさらに再訳し、演じられたこれらの作品はいわゆる原作レイプというものに当てはまるのか。

肯定する意見もあるだろうが、これら全ては、原作をないがしろにした作品ではないと僕は思う。

監督が描きたい、もしくは焦点を当てたい作品内のテーマを的確に提示できるよう、原作をよく取り込んでいるいい例だと思う。ある意味、研究論文と同じで、切り口を変えた原作の見方を提示してると捉えられる。いい方向に作品を取り込んでいるこの例は、突飛な解釈をせず、書かれていることを忠実に読み解いていることを表していると考えてもいい。

 

 どんな作品でも、出た当時の歴史的背景や民族の特徴、風刺などは必ず反映されているから、それらに作品を読むことは当時を理解することにつながる。現代にそのスタイルが合わなくなった時、作品の形を時代に合わせることは必要なことだと思う。黒澤明の作品がいい例だと思う。

けれど、そういった原作のコンテクストや背景を意識せずやみくもに都合のいい場面を拾ってつなぎ合わせることは、原作者に失礼であり、原作レイプと言われても仕方がない。

経済のために作られた、原作者が描きたかった主題を汲み取れていない作品は価値がない。

だれの価値観も投影されていない作品から受け取るものなど何もない。

 

 これこそ『フランケンシュタイン』がいい例だと思う。いちゃもんをつけているように思われるかもしれないが、文学史的に言えばこの作品はゴシック小説で、ベースは怪奇譚。ストーリーの進行は書簡の体裁をもっている。一応SF作品とみなされることもある。と、このいわゆる文学史的意義は、今日のフランケンシュタインという名詞に、みじんこほども含まれていない。

フランケンシュタインといえば『怪物くん』のフランケン、スリムクラブフランチェンのような姿を思い浮かべて終わりだろう。

 

 生命の創作や葛藤、愛や親と子の関係性などこの作品を作品たらしめる要素は、原作レイプが進むたび、あの特徴的な見た目に取っても変わられた。あんなんもう名を借りただけの創作作品である。ただ、伊藤計劃円城塔の『屍者の帝国』はフランケンシュタインを元ネタとして扱うのがうまかった。特に伴侶に関してうまく話の鍵に落とし込めていたと思う。

 

 原作をないがしろにし、ただ分かりやすく、観客・視聴者の気を引けるように作り直された『フランケンシュタイン』は、現代の実写映画問題に通ずるものがある。

名を借りただけで、原作の主題を取り込めていない作品は品位を落とすだけでなく、間違った解釈を生みかねない。話題を作るたに、CMを派手にするために、作品を再編集するのはやめていただきたい。それただの2次創作作品である。なんで金払って他人の脳内補正を見なくちゃならんのだ。

原作をもった映画や劇の価値は、再翻訳するなかで新しい切り口をもった現代作品になるという点だと僕は思うのだ。

 

 こんな風にフランケンシュタインは、もう名前だけでああ、名前を借りただけねと捉えられるリスクがある。そんな中、あえてフランケンシュタインを前面に押し出してきた『フランケンシュタインの恋」

 伴侶を願った、あの名のない怪物なのか。全く別の怪物なのか。綾野剛演じるフランケンシュタインの設定もよくわからないが、せっかく問題の名前を借りているのだから、ふわっとした緩い結末 ー考えさせられる作品でした。くらいしか感想を抱けない結末ー ではなくAIの発展が目覚ましい、現代に合わせた「フランケンシュタインコンプレックス」を扱った作品になってほしい。

まあただの願望だからならなくても別に文句はない。

 

ただ、原作をあえて使った作品の必要性が見て取れないままでは、映画もドラマも演劇も衰退していってしまう。だれも創作作品を見なくなることで、過去の素晴らしい作品達は時代に埋もれていってしまう。

だから、再翻訳したことの意義を、どの作品も押し出して欲しいものである。

 

では、また。